【聖徳太子】  
大峰山を開山し、修験道の開祖と成った役行者は、西暦655年位に、大和の国は葛城にご誕生せられ、御年68歳に渡天せられたと山伏問答に伝えられています。つまり西暦655年から西暦723年と成り、飛鳥の時代と重なります。
敏達天皇3年1月1日(574年2月7日) - 推古天皇30年2月22日(622年4月8日))・厩戸皇子(うまやどのみこ、うまやどのおうじ[1])は、飛鳥時代の皇族・政治家。「聖徳太子」はその時の名前ではなく、後世の諡号。用明天皇の第二皇子、母は欽明天皇の皇女・穴穂部間人皇女。

推古天皇のもと、蘇我馬子と協調して政治を行い、国際的緊張のなかで遣隋使を派遣するなど進んでいる中国の文化・制度を学び冠位十二階や十七条憲法を定めるなど天皇を中心とした中央集権国家体制の確立を図った他、仏教を取り入れ神道とともに厚く信仰し興隆につとめた。

厩戸・前にて出生したので厩戸(うまやど・うまやと)と命名されたとの伝説がある[注釈 1]。また母が実母・蘇我小姉君の実家(叔父・蘇我馬子の家)にて出産したので馬子屋敷に因み厩戸と命名されたとする説や、生誕地・近辺の地名・厩戸に因み命名されたなど様々な説がある。

豊聡耳(とよとみみ、とよさとみみ)、上宮王(かみつみやおう)との別名も有り顕真が記した『聖徳太子伝私記』の中で引用されている慶雲3年(706年)頃に作られた「法起寺塔露盤銘」には上宮太子聖徳皇、『古事記』(和銅5年、712年)では上宮之厩戸豊聡耳命、『日本書紀』(養老4年、720年)では厩戸(豐聰耳)皇子のほかに豊耳聡聖徳、豊聡耳法大王、法主王、東宮聖徳と記されている。

聖徳太子という名称は死没129年後天平勝宝3年(751年)に編纂された『懐風藻』が初出と言われる。そして、平安時代に成立した史書である『日本三代実録『大鏡』『東大寺要録』『水鏡』等はいずれも「聖徳太子」と記載し、「厩戸」「豐聰耳」などの表記は見えないため、遅くともこの時期には「聖徳太子」の名が一般的な名称となっていたことが伺える。

713年-717年頃の成立とされる『播磨国風土記』印南郡大國里条にある生石神社の「石の宝殿」についての記述に、「池之原 原南有作石 形如屋 長二丈 廣一丈五尺 高亦如之 名號曰 大石 傳云 聖徳王御世 廄戶 弓削大連 守屋 所造之石也」(原の南に作石あり。形、屋の如し。長さ二丈(つえ)、廣さ一丈五尺(さか、尺または咫)、高さもかくの如し。名號を大石といふ。傳へていへらく、聖徳の王の御世、弓削の大連の造れる石なり)とあり、「弓削の大連」は物部守屋、「聖徳の王(聖徳王)」は厩戸皇子[3]と解釈する説もある。また、大宝令の注釈書『古記』(天平10年、738年頃)には上宮太子の諡号を聖徳王としたとある。

一般的な呼称の基準ともなる歴史の教科書においては長く「聖徳太子(厩戸皇子)」とされてきた。しかし上記のように存命中の呼称ではないという理由により、たとえば山川出版社の『詳説日本史』では2002年(平成14年)度検定版から「厩戸王(聖徳太子)」に変更されたが、この方針に対して尊皇派が反発し批判を展開している。2013年(平成25年)3月27日付朝日新聞よれば清水書院の高校日本史教科書では2014年(平成26年)度版から聖徳太子虚構説をとりあげた。その後「厩戸王」などとした表記について、「表記が変わると教えづらい」という声があることから、2020年度小学校へ、2021年度中学校に導入される予定の学習指導要領案最終版では、文部科学省は「聖徳太子」に修正するよう検討していたことが報道された。
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